SUKIYAKI SONG [1]

東日本大震災から2年が経った。

 

もう2年も経ったんだという感情が私にはある。

私は地震の被害に直接は合わなかったし、親しい人を失うという事も無かった。だからなのか、悪気は無いのだがどこか他人事に感じる時がある。

 

何か力になりたいと思っても何も出来ていない、2年もあったのに。

自分の生活に追われ精いっぱい、「いつかは」とは考えていてもいつ出来るかはわかっていない。

だがあの日受けた衝撃というのはやはり忘れる事ができない。あの時湧いた感情は同情だったのか勇気だったのか。答えは出ないがあの日を境に何かが変わったという人は少なくないはずだ。

私もそうだ、何かが変わった。

 

林業界にとっても大きな影響をもたらした。

再び耐震という言葉に注目が集まり、『災害に強い=コンクリート・新建材』となった。

あの頃は徐々に国産材で立てる木造の家が少しずつ見直されて来ていた。情緒的に安定をもたらす木の家に消費者も目を向けていた時期だ。

しかし津波に流される木造の家と、津波でも残ったコンクリートづくりの建物という強烈な映像を観てしまった消費者は、家づくりに求める情緒的な感情は津波によって洗い流され、残ったものは『災害に強い家』というキーワードだけだった。

だがこれは消費者を責める事は出来ない。仕方がないのだ。私が海辺に住んでいたら同じことを考えるだろう。何十年もお金を払って建てる家。夢のマイホーム。そう簡単には崩れて欲しくは無い。

 

言うなればハウスメーカーを褒めるべきだ。

消費者心理にすぐさま飛びつきニーズに応える。

復興需要に国産材を活かして欲しい林業界は完璧に遅れをとっている。何一つ提案できていない。相変わらずどんくさい。

10年後…復興が進んだ街に建つのは地元の大工が建てた国産材の家ではなく、遠くの工場で造られるコンクリートと鉄筋と外材の家かもしれないのに。

そして「災害に強い」という理由でまた同じ場所に建てるのだろう。

 

これまでの歴史を見ても、日本の家づくりは災害によって行われてきた。災害によって日本の家は進化してきたと言ってもよい。

大火災があれば防火が配慮され、洪水が起これば床が高くなり、大寒波がくれば断熱材が壁に入った。

近場で言えば阪神大震災。あの時から『耐震』という言葉が標準語となった。

共通して言えるのは、「災害に合わない家づくり」ではなく、「災害に強い家づくり」へと進化した事だ。

災害を躱すのではなく、災害と戦う工夫がされてきた。

狭い日本ならではでもあり、日本人の技術力の高さも窺える。

 

これを逆に返せば災害と戦わなければ、災害に強い必要は無いのである。昔の金持ちの家が小高い所に建っているのは伊達では無い。災害に合いにくい場所を選んで建てていたのだ。

 

今回の津波をきっかけに災害と戦うのではなく、災害に合わない工夫が注目を集めるだろう。昔は金持ちしか住めなかった山の上は、今では水害に合いやすい低い土地よりも格段に安い。

狭い日本でこんなに土地が余っているのは山だけだ。同じ値段で倍の広さは買えるだろう。災害に合いにくい立地なら災害対策にお金はかけず、存分に住みやすさに配慮した家づくりができる。

 

私の住む美郷町南郷渡川地区は平家や西郷隆盛も逃げてくる程山深い不便な土地だったが、今では最寄りの日向市まで50分。都会のサラリーマンの平均通勤時間は40~50分。なんの事はない、山は現実的に今『買い』だと思う。

 

少し話が逸れたが、あの日をきっかけに林業で注目を集めたのは住宅だけではない。やはり一番は『木質バイオマスエネルギー』だろう。

 

原子力発電に変わるエネルギー政策として木質バイオマス発電にに注目が集まった。いわゆる燃料としての木材利用。

現在多くの議論がなされ、採算性に合うのか様々な試算が出ている。

これが良いのか、悪いのか…私は単純な金額換算では出ないデリケートな問題だと思っている。

ただこれからの日本の林業の存続を左右する大きなテーマとなる事は間違いない。木質バイオマスは日本林業を活かすのか殺すのか。

 

2011年3月11日…

 

奇しくもあの日、私は海辺に建つ木質バイオマス工場へ見学に来ていた。

 

 

・SUKIYKISONG[2]へ続く…