2011年 3月11日…
私は延岡にある木材チップ工場へ見学に来ていた。
本来なら(これまでなら)山で捨てられるはずの曲がった木や腐れの入った木が大量に集められていた。
それをドイツ製の大型機械で次々とチップにしていく。大きさは様々、大体は5~10㎝程度だっただろうか。「チップ」と聞くと大層なものに聞こえるが、何の事はない只の木片である。
これを乾燥率関係なしに大型工場へ卸し、そこで燃料となる。
そう只の焚き物だ。
メディアで「木質バイオマス」と言うと難しく聞こえる。これだけで一般人はぴんと来ない。これが悪い。これだけで興味が失せる。
「木質バイオマスは焚き物(たきもん)です」
こう言った方がよっぽどぴんと来る。
スパッツがレギンスになった様に、デザートがスイーツになった様に、伊達公子がクルム伊達公子になった様に、焚き物が木質バイオマスになっただけなのだ。
レギンスの時はピーコがわかりやすく教えてくれたが、木質バイオマスについてはワイドショーでは教えてくれない。
絶対林業なんかした事無いであろう体型をした木村太郎も森永卓郎も、「採算性にですね」なんてばかり言って余計に話題から遠ざけてしまう。よっぽどピーコの方が話題上手だ。
ま、ピーコはこの変にしといて、この話題で一番の胆は「ワット当たりの買い取り単価」だと思う。
要するに『1kgワット発電するのに必要な木材を〇〇円で買い取りますよ』というもの。
よく採算性に議論が行くのでこれが安いのかと思われがちだがそうではない、意外に高いのだ。「ならいいじゃん」とも思うかもしれないがそうでもないのである。
確かに捨てるものを高くで買ってもらえるのはありがたい。これまでは高く買い取られていた家の柱にする丸太でさえ安い時代である、尚更だ。
しかし現在の試算では木質バイオマスへ出荷した際の立法当たりの買い取り価格は、柱にするA級丸太の価格と変わらない試算が出ている。(試算によってばらつきがあるので一概には言えない)
つまり家を建てる柱用の丸太も焚き物も同じ値段なのだ。
そして大型工場で発電する以上、捨てるものだけでは賄いきれない。つまりわざわざ木を伐って焚き物にしなくちゃいけない。
私はこれが問題だと思う。
大まかに言うと、林業は50年スパンで木を伐る。植えた木は50年に1度しか収穫できない。だからじいちゃんが植えた木を伐り、自分が植えた木を孫が伐るという壮大なスケールを持った仕事、それが林業なのだ。
そこに未来を見据えた山(森)づくりがあり、そこに専門的な技術や伝統的な技術が残っていく。そしてそこに林業従事者(山師)としてのやりがいが生まれてくる。
50年後を夢見、培った技術を活かし伝承させる。そして若者(子ども)もそれを格好良く思い林業へと従事していく。
が、このままでは50年育てた木も焚き物になる。
焚き物でいいのなら、木が曲がろうと傷が入ろうと関係ない。なんなら杉や檜では無く太りだけが良く他には利用価値の無い木がもてはやされるかもしれない。燃えれば良いのだからそこに森づくりの技術はいらない。
じいちゃん→「50年かけて立派な木になっただろう。これが焚き物になるんだぞ!」
これで若い世代は林業をしたいと思うのだろうか?
買い取り価格が高ければ林業が持続するというのはまやかしだと思えてならない。
もちろん高い方が林業としては助かるのだが、林業が(最終的には必ず)情緒的な要素を必要とする仕事である以上、この「持続性」についてもっと議論する必要性があるのではないだろうか。
林業に今必要なのは補助金ではなく、『誇りと自信』だと思う。
「うちの山の木が東京の会社の内装に使われて、みんな喜んで仕事しよるげなわ!」
「俺が伐った木は今家具になってジャスコに並んどるとよ!」
「僕がジャスコで買った机はあの山の木なんだって!」
こんな会話が林業に誇りと自信をもたらせてくれるだろう。
その為に出来る事はないのか。
街と山とが繋がる事はそんなに難しいことなのだろうか。
ここはやっぱりピーコの出番でしょう。
いや、ここはオスギかな。
『山と街を繋ぐお杉』
ポスターはオスギにチェーンソーでも持たせるか(笑)
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